FC2ブログ
2020.02.10
31ソフィアン

第32回上林暁文学館企画展「上林暁とセンター試験」へ寄せられたメッセージ

シェイク・ソフィアン
いつの時代も、受験生は過去問を繰り返す。一年周期で紡ぎあげられるそれを丁寧に手繰り寄せ、紐解き、例年の傾向を探り、意図を研究する。過去問は彼らにとって命綱でもある。
「花の精」はここに織り込まることになった。令和元年のセンター受験生たちは「花の精」の問いに、幾度となく挑んでいることだろう。
ともすれば、作品が表面的に消費されてしまうだけのように見えてしまうかもしれない。真に読み解かれている、とは言い切れないのかもしれない。それでも多くの青春の只中で、彼の作品が穏やかに息づいている。血脈の末端に吊り下がる私は、付箋まみれの赤本を持つ学生を見ると、どうにも感傷に浸るようになってしまった。
スポンサーサイト



30愛民

上林暁の作品に「孫アキコ」というのがあります。その暁子さんは国際結婚されて、三人の子供がいます。「上林暁とセンター試験」という企画では、その三人からメセージをいただきました。まずは、長男の愛民さんから。彼は今、アメリカで映画製作の仕事に携わっているそうです。

愛民(アミン)
上林暁は私が生まれる10年も前に亡くなっています。
子孫ということでこうして文章を書かせて頂いていますが、彼の声も知らない私は一読者でしかないのも事実です。なので、感想文に近いものとして読んでいただければ幸いです。
時代が変わり、人々の生活や価値観が変わっても、私たちは常に各々の「月見草」を探しているように感じます。騒々しい日々の中で、囁き声のように跳ね返ってくる自分と「月見草」の共鳴音を聞き分けるのは容易ではありません。ですが必要に迫られた時に鋭く研ぎ澄まされる感性は誰もが持ちえているのだと、暁は語ったのではないでしょうか。
私はここ十年近くアメリカで生活しています。曽祖父である暁のことを日本語を話さない友人に語ることも珍しくありません。作品の文意を抽出し、彼が抱いた人生観がどんなものでだったのかを英語で説明する時、暁から一種の挑戦を受けているように感じます。文章の端っこに隠れた縁の下の力持ちのようで、かつ繊細に残る日本語独特の余韻は、ただ直訳しただけでは当然伝わりません。かといって暁のことを話さないと何も始まらないので、ひたすら自分の言葉で表現し直すことが精々です。
そもそも私が感じたことが作品の解釈として代表されて良いものなのかすら疑問に感じることがあります。言い方を変えれば、私たちは暁が意図していなかった画を作品から描き出すことができるということです。あるいは暁は元から時代が変化することを見通して、私たちが各々の生活を投影できるような余裕を残したのかもしれません。人差し指でなぞった文章の一字一句は読む人に授けられるのだ、というのが苦境に陥ってもなお明るく笑った暁のメッセージだったのでしょう。
今回センター試験受験生たちそれぞれが正解とは違う新しい納得を生みだしていれば、暁はきっと喜んだのではないかと勝手に想像しています。
2020.02.04 司牡丹の記
司牡丹

上林さんの好きなお酒の話が出たので「司牡丹の記」という作品を紹介します。ある正月に阿佐ヶ谷で、わずか一合の土佐の酒「司牡丹」を、六人が舐めるように飲んだという話です。
この時の青柳瑞穂氏の評がいい。青柳氏はフランス文学者で美術評論家の詩人、今で言うならば、「お宝探偵団」の人気鑑定士、中島誠之助さんをフランス文学者にしたような方です。
もし、面白かったら、誰か司牡丹の社長にシェアしてくれない
2020.02.03
4 色紙(酒は・・)
中村高校の文学碑から話が盛り上がりましたが、
『文芸は 私の一の芸 二の芸 三の芸である』
『酒は 我が一の友 二の友 三の友である』
この二つの言葉、どちらが先だったでしょうか?
2000年、私は古書入札会目録で『酒は我が一の友二の友三の友である』という上林さんの色紙を見つけました。右手で書かれているので、高校の碑ができた時より古く、意外な発見なので顕彰会で購入しました。
『文芸は私の一の芸二の芸三の芸である』という言葉は、「上林さんの一途な生き方や、文学への情熱を表した言葉」と教えられていたから、随分イメージの異なる言葉にとまどいましたが、そのいきさつは『禁酒宣言』という本を読み分かりました。
そこには、「小生、この度感ずるところあつて、酒を止めることにしました。断然やめたいと思います。飲み屋のもとめに応じて「酒は私の一の友二の友三の友である」と、色紙に書き殴ったのは、つい数日前のことですが・・・』と書かれています。
その三年前、最も創作意欲が盛んな時の評論で『僕は小説を書くことを、自分の一の芸とも思ひ、二の芸とも思ひ、更に三の芸とも思っているのである』と書いていますので。やはり、「酒」よりも「文芸」が先だったようです。
※上林さんは右利きで、二度めの発病後の初期は左手で書いていました。中村高校の碑は左手で書かれています。
1946(昭和21)年「評論」
1949(昭和24)年「禁酒宣言」
1952(昭和27)年 軽い脳出血
1962(昭和37)年 二度目の脳出血
1972(昭和47)年 文学碑原文を書く
1973(昭和48)年 中村高校文学碑建立
安部夜郎氏のボトル

「上林暁作品の映画化を推進する会」の趣旨に賛同してくれた安部夜郎氏ですが、
新宿の某店の安倍さんのマイボトルの写真を、T記者が送ってくれました。
「四万十川の青き流れを忘れめや」
時代は流れても、故郷を思いながら東京で頑張られている姿は、上林さんと同じなのだなあと思いました。